岩田 聖司
駒大苫小牧高校 / 2004年の夏
私の高校最後の夏は、甲子園優勝という最高の形で終えることができました。
白河の関を越える事はないと言われた甲子園の優勝旗を、初めて北海道に持って来れた嬉しさ、誇らしさ、達成感と充実感。 この時の感激はいつでも私の原動力です。 辛い事があっても、苦しい事があっても、この時の素晴らしい経験が、私を強く支えてくれているような気がします。
しかしこの深紅の優勝旗を手にするまでの3年間の道程は、決して平坦なものではありませんでした。
その私の3年間の軌跡を、少しだけご紹介します。
2002年駒大苫小牧入学
入学の動機は何と言っても、素晴らしい監督(香田監督)がいるのが理由でした。
入学当初の私は、ただただ先輩達のレベルの高さに驚くばかり。 監督の厳しい指導についていくので精一杯。 駒大苫小牧のレベルの高さに圧倒されるばかりの、不安いっぱいの一年生でした。
2002年秋~2003年春の甲子園
3年生が引退すると、野球部は1、2年生合わせて30人に満たない人数になってしまいました。 少数精鋭(?)の新チームで、密度の高い練習をスタートしました。 これが、地獄の始まりでした。 私たちは、朝から晩までハードな練習漬けの毎日を送りました。 監督に叱られたり、練習のあまりの辛さに耐えられなくなって、寮から逃げ出そうとする部員もいました。 その度に皆で励まし合い、一人も欠けることなく夏休み練習を乗り越えました。
そして、厳しい練習を乗り越えた私たちは、着実に力を付けていました。
秋の大会では、まだ1年生ながら、私はベンチ入りを果たしました。 競争の激しい野球部でしたから、試合には出られないにせよ、とても嬉しい抜擢でした。
この時、チームは順調に勝ち進み、札幌第一高校との決勝戦を制して甲子園への切符を手にします。
しかし甲子園の1回戦で藤代高校に1-2で惜敗。甲子園のレベルの高さを肌で感じる事になります。
2003年夏の甲子園、 痛恨の降雨ノーゲーム
北海道栄高校との決戦に勝利し、北海道大会の春夏連覇を達成。
しかし問題はここからです。 春の甲子園一回戦敗退から積み重ねてきたトレーニングの成果がどれだけ発揮できるか。
「甲子園でまずは1勝!」 これがチームの意気込み・合言葉でした。
必ず勝たなければならない1回戦の対戦相手は岡山の倉敷工
3回を終了し8-0と大きくリードした私たちは、誰もが勝利を確信していました。でもその矢先、4回途中からまさかの大雨。この時、大阪には大型台風が接近中でした。試合はノーゲームとなり、翌日に再試合となりました。 再試合では2-5でまさかの敗北。 この敗北は新聞や雑誌で「8・9の悲劇」などと報じられました。
「天は倉敷工に味方したのか?」「いや、これが我々の実力なのだ!」
何度も自分に言い聞かせながら、それでも天を恨む気持ちが拭い切れない。 この時、自分の心の弱さをつくづく痛感しました。
2003年秋~2004年春の選抜、同地区の鵡川高校に惨敗
苦しい練習と、悔しい敗北を共に乗り越えてきた3年生が引退。 降雨ノーゲームの苦汁を共に味わった先輩たちを見送るときには胸が熱くなりました。
「勝って先輩たちに借りを返す、無念を晴らす!」
そんな気持ちで、私は厳しい練習にさらに拍車をかけました。入学当初は「地獄」と言っていた練習でしたが、この時は「死にもの狂い」という言葉の方が似合っていたかも知れません。
しかし、そんな私たちの甲子園出場の夢を、完膚なきまでに打ち砕く強敵が現れました。
私達の前に立ちはだかったのは鵡川高校でした。
全道大会決勝戦は、終始「シシャモ打線」に押され続け、3-7で完全に力負け。 こちらの打線は、鵡川高校エースの宮田に、完璧に抑えられました。 いままでの「死にもの狂い」の練習がほとんど通用しませんでした。
「まず全国で一勝!」「勝って先輩に恩返し!」これまでいろんな思いで戦ってきましたが、今日からは違います。
「打倒鵡川! 打倒宮田!」
チームの団結はより一層固くなりました。
2004年「最後の夏」地区予選、鵡川高校にリベンジ
宿敵、鵡川高校との再対決です。夏の大会では室蘭地区予選で早々に鵡川と当たります。 この日のためにどれだけの練習を重ねてきたか! この日のためにどれだけの事を犠牲にしてきたか! 万感の思いでピッチャーマウンドに立ち、私は大きく深呼吸しました。
私の「最後の夏」がはじまりました。
宮田はどうした?
エースの宮田が鵡川高校ベンチから出てきません。 結局最後まで宮田の登板はなく、試合は7-0で我々の勝利。
後から聞いた話では、宮田は夏を控えて怪我をしてしまったたらしい。 さぞ悔しかっただろう。 宮田の胸中を察するにつけ、自分も苦しくなりました。
当時の戦いを知る仲間たちは、今でも、あの時宮田が投げていたら厳しい戦いになっていたんじゃないかと話しています。
宮田との対決の夢が叶わなかったとはいえ、打倒鵡川!の宿願を果たした私たちは順調に勝ち進み、甲子園へと駒を進めました。
そして全国へ! 深紅の優勝旗を手に
「俺たちが果たせなかった1勝をお前たちに託した、監督を男にしてやってくれ!」
甲子園の1回戦、佐世保実業(長崎)との対戦に臨む私たちに届いた手紙には熱いメッセージ。 昨年の今日、「8・9の悲劇」などと報じられた雨のノーゲームを共に戦った先輩達からでした。
お腹の底から闘志がこみあげてきました。
他の仲間たちも同じ気持ちだったようです。 言葉少なに握った拳を震わせている者もいました。 みんなの気持ちは完全に一つになっていました。
先発でマウンドに立った私は、ただひたすら先輩たちの事を思い必死に投げていました。 何がどうなって 7-3で勝利したのか、はっきり覚えていません。 ただ、勝利の瞬間の嬉しさは、この時が一番だったかもしれません。
悲願の甲子園一勝を果たし、私はようやくネガティブなプレッシャーから解放された気がしていました。
気持ちが軽くなり、自然体で全力投球。 駒大苫小牧の快進撃が始まりました。
日大三高との乱打戦
横浜高校との投手戦
東海大甲府との準決勝
左中指の皮がめくれ上がり、水絆創膏を塗りながらの登板は苦しくもありましたが、のびのびと戦っている自分を、とても快く感じていました。 報道陣のヒーローインタビューに「負ける気がしなかった」と答えている選手をテレビでよく見ていましたが、この時の私もきっとそうだったに違いありません。
さあ、いよいよ決勝戦。 相手は甲子園春夏連覇をかけて試合に臨む済美高校です。
怪我した指が痛みますが、気持ちはは完全に前向きです。「この試合に勝って日本一」 先発でマウンドに立つ私は、勝利を確信していました。 闘志には一点の曇りもありませんでした。
しかし、最も恐れていたアクシデント。
無念にも左中指の水絆創膏が剥がれてしまい、2イニングで降板を余儀なくされてしまいました。
「みんな、ごめん!」とベンチに戻る私。
しかし、駒大苫小牧ベンチの熱気と闘志は、まったく変わりませんでした。 私が逆に圧倒され、痛みを忘れてしまう程でした。
そこからは想像を超えた乱打戦が始まりました。 点は取られては取り返し、まさに死闘そのもの。 ようやく全国の頂点に立つことができたときのスコアは、何と13-10。
深紅の優勝旗を死力で奪取しました。
もう15年ほど昔の話にはなりますが、この壮絶な3年間は、私の一生の宝物です。
素晴らしいご指導をしてくださった香田監督
いつも私を熱く刺激し、共に戦ってくれた先輩・後輩たち
遠い北海道から心強い応援をしてくださったたくさんの皆さん
この時授かったすべての人々の思いに、一生かけて恩返しするのが私の生き方ではないかと思っています。
そんな生き方がしたくて、私はエコアハウスに入社しました。
この会社なら、人の幸せのためになる仕事ができると思ったからです。 良い住まいは人を幸せにします。
するとそこには、あの鵡川の宮田が、一足先に入社して待っていてくれました。 ちょっと老けましたが気さくな笑顔はあの時のままです。
いまさら、あの時果たせなかった打倒宮田を! なんて話はあり得ませんが(笑)
高校時代のライバルと共に仕事をし、また一緒に野球ができるなんて、こんな楽しい事はありません。
いまは、エコアハウスの気さくな仲間たちと共に、新たな気持ちで頑張っています。 こんどはエコアハウスの全国優勝を目指しますよ。 応援してください。
2019年の宮田隼(現、エコアハウス営業部)