伊藤 秀則
北海道滝川西高校 / 1998年夏
滝川西高校といえば、「文武両道」を目標に掲げた空知の雄
部活動の加入率はいまでも90%を超え、多くの部が全道大会や全国大会に進出しています。
野球部も相変わらず強くて、2017年には第99回全国高等学校野球選手権大会に19年ぶり! 3回目の出場を果たし、甲子園の土を踏んでくれました。誇らしい限りです。 本当によく頑張っていると思います。いつも応援しています。
その19年ぶり。。。その19年前の1998年に2回目の甲子園出場を果たしたのが私の時代です。野球の世界では「松坂世代」と言われ、甲子園からたくさんのプロ野球選手が輩出した時代です。もうずいぶん経ちますが、良い時代だったのではないでしょうか。
そんな時代に、ひとりの野球少年が、空知の田園地帯からはるばる甲子園まで上り詰めていきます。恐いもの知らず・自信満々の熱血野球少年です。その道のりを、少しだけご紹介します。何せ昔の話ですから、いまの高校球児にはあまり参考にならないかもしれませんが(笑)
1996年 滝川西への入学の動機は、家から一番近かったこと。いくつか誘ってくれる高校もあり、ありがたくも思いましたが、野球部のある高校であればどこでも良かったというのが当時の正直な気持ちだったと思います。
野球ができればそれでいい! (恐いもの知らず)
自分の野球はどこでもできる! (自信満々)
そんな私は、頭の先から足の先まで純粋な「熱血野球少年」でした。
入学早々春からベンチに入れてもらい、夏には背番号5番をもらってサードのレギュラーになりました。それ以降3年夏の甲子園まで公式戦すべての試合に出場しました。 いまから思えばありがたい抜擢だったと思っています。他の高校ではどんなに頑張っても2年の秋にレギュラーになれるかなれないか、というのが一般的です。まるまる3年間思いっきり最前線で野球に没頭させてもらうことができました。
当時の監督は高石克美監督。 甲子園3回出場の実績のある方で、後に札幌大学野球部監督に就任されました。
すごく怖い顔をして怒ります。本当によく叱られました。でも、本当に優しい。私達の成長を第一に考えてくれる気持ちが怒鳴り声にこもっていました。野球の技術面だけでなく私生活まで一生懸命に指導してくれました。監督は自分のことを「鬼面仏心」と言っていましたが、まさにその通りかもしれません。
そんな監督のもと、当時の野球部にはとても厳しい決まり事がいくつもありました。
恋愛禁止!
炭酸禁止!
練習中の水飲み禁止!
グラウンドではいつでも全力疾走、歩くの禁止!
バス電車で座るの禁止!
ルールを踏み外して監督にこっぴどく叱られることは日常茶飯事でしたが、脱落者を出さずみんなで頑張っていました。単に、女子にモテない面々が揃っていただけかもしれませんが(笑)
そして、何よりキツかったのが練習後の「ベーラン」5セット! これは地獄でした。疲れを知らない子供のように思いっきり練習に集中し、ヘトヘトになったところで強行するベースランニングは半端じゃない。そんな状態で約109mの全力疾走を5回もやると、正直意識が遠のくような感じになります。
厳しい規律と激しい練習。でもそんな毎日がとても楽しかった。
本当にいい高校生活を送らせてもらいました。こうしたトレーニングを毎日やり遂げていたことが、いまの私の自信にもなっています。
さて、そんな滝川西高校。 1998年夏の甲子園まで3年がかりで昇り詰めて行きます。
一番の「目の上のたんこぶ」は隣町の砂川北高校でした。勝ったり負けたりのライバル校でしたが、なぜかここ一番という時に勝てない。ここに勝たなければ地区予選どまりで全道大会の陽の目すら拝めない。本当に必死でした。
この時砂川北高校を引っ張っていたのが、あの有名な佐藤茂富監督、母校の高石克美監督に勝るとも劣らない名監督だったと思います。佐藤監督はその後、鵡川高校に転任されて鵡川の甲子園出場を実現しました。ほんとうにすごい方ですよね。
悔しかったのは、2年生の夏。甲子園出場をかけた旭川大学高校との北北海道大会決勝戦。
9回2アウトまで勝っていたけど自分も絡んだ中継ミスで逆転サヨナラ負け。3‐2と1点リードで迎えた九回裏の旭川大高の攻撃で、2点を奪われてしまいました。これはきつかったですねぇ。目の前まで掴みかけた甲子園が無残にも遠のいていく瞬間でした。この悔しさを忘れなかった私達滝川西高は、翌年の夏の甲子園に向けてわき目も振らず邁進していきました。
そして1998年「最後の夏」
勝った勝った!勝ちました。 北北海道大会決勝戦。
帯広南商業高に6-2で勝利し、ようやく甲子園の切符をつかみました。ここまで3年かかりました。決してあきらめず、ひるまず、粘り強く戦い続けた成果だったのではないでしょうか。今でもこの時の自分は褒めてやりたいくらいです。 甲子園では奈良県の智弁学園に敗北し一回戦敗退の涙をぬぐいましたが、我が「最後の夏」に悔いなし。
この戦いのなかで培った「決してあきらめない」精神力は今でも私の中に生き続けています。 ただただ野球が好きだった「熱血野球少年」をここまで強くしてくれた高校野球生活は、私のかけがえのない財産。監督にも共に戦った仲間にも本当に感謝しています。
今を生きる高校球児にも、同じ喜びを勝ち得てもらいたいと切望しています。滝川西高の後輩たちに、いつも心からエールを送っています。
そんな私ですが、今はエコアハウスで「監督」をやっています。
監督と言っても野球部の監督ではなく「日本一の施工品質」を実現する施工管理の監督です。お世話になった高石監督の野球にかける情熱には足元にも及ばないかもしれませんが、日本一の現場監督になるべく負けじと頑張っています。
現場でお会いした時には、気軽にお声掛けください。ちょっと恐い顔をしていますが「鬼面仏心」ですから(笑)
よろしくお願いします。