野球部手記

中村 亮介

関東第一高校 / 2008年春と夏

中村 亮介

~私は2006年に東京都の関東第一高等学校へ入学しました~

所属していたシニアの監督の伝いでセレクションを受けに行ったのが入学のきっかけです。

でも実は、本当の志望校は鹿児島実業でした。

当時私は、反抗期真っ盛りの中学3年生でありながら父親をとても尊敬していました。父親の出身校である鹿児島実業に進み、「父親を超える選手になろう!」とか「父親と同じ舞台でより良い成績を残してやろう!」とか、そんな真直ぐな夢を馳せる純真な(?)子供だったんです。

父に頼み込んでわざわざ九州まで行かせてもらい、学校見学をしたこともあります。 合同練習に参加させてもらったり、硬式野球部の記念館に展示されている在りし日の父親のファインプレーの写真を見て感動したり。。。紛れもなく、私は父親の背中を追っていました。

でもやはり鹿児島は遠すぎました。刺身醤油が苦手なので、鹿児島に馴染めるかどうかの不安もありましたし。。。

激烈な家族会議の結果、私は鹿児島行きを断念。地元の高校への進学を志しました。

今から考えると、実に妥当な判断だったと思います。

中村 亮介

~入学、そして寮生活~

関東第一高校は、今でこそ東東京の強豪校と言われていますが、当時は良くてベスト4。「関東一高?どこだそこ?」という感じの高校でした。いわゆる古豪(昔は強かった)です。

校舎は東京都江戸川区にありますが、球場と寮は千葉県白井市にあり全寮制。毎日の通学は、自転車15分・通勤ラッシュの満員電車30分・徒歩15分。それだけで結構汗をかけました。

そして寮生活はなかなかの「野球生活環境」でした。

 

携帯電話禁止(寮長のおじいさんに預けます)

家族との連絡は公衆電話2台のみ

敷地から出ることは通学以外不可

テレビは食堂とミーティングルームの2カ所だけ(基本的に野球中継のみ)

夕食は寮生全員で18時~18時30分

茶碗3杯食べ終わった者から自主練習再開

さらに練習合間と寝る前にご飯1杯

寮の中にウエイトトレーニング場、洗濯機は1部屋1台

学園祭には参加禁止

素晴らしい環境ですよね!(笑)

 

なにより、私にとっていちばん厳しかったのが夏休みでした。 授業のない夏休みは寮の敷地から出られません。 だから、大好きな買い食いがいつものようにできない。(コンビニに駆け込み、隠れてお菓子やアイスを食べる至福のひと時)

でも、優しい人って必ずいるものです。

そんな私たちを気遣い、寮食堂の店長が「野手にはホームラン1本につき箱アイス1本」「投手は完封でアイス1本」という夏限定のプレミアムなノベリティを振舞ってくれました。 みんなこのアイス欲しさに、夏のオープン戦は打撃爆発です!!

 

~2007年の夏、思い出に残るとっても理不尽な試合~

私が2年生の頃にこんな試合がありました。 神宮球場で行った帝京高校との準決勝

この試合の様子は、今でもYouTubeに残っています。

試合途中から猛雨

雷が鳴りはじめ、落雷を防ぐためにバットは木製に切り替わりました

ホームベースは赤土の水で見えなくなり、

足元には水が溜まり、まともに走れない

スライディングをすれば、滑りすぎてベースを越えてしまう

普通だったらノーゲーム。 しかし試合はそのまま続行され、7回を終え試合成立・・・降雨コールドゲーム。

グランドコンディションの悪化により、序盤の失点を挽回するチャンスを失ったまま関東第一は敗北してしまいました。  確かに試合自体は理不尽だったと思います。

観客も納得がいかず、大勢の人が出入り口を囲んで強く激しく抗議。 大騒ぎの挙句、「終わるに終われない試合」「普通に負けるより悔しい試合」としてニュースにも取り上げられてしまいました。

そしてこの日を境に、関東第一のスローガンは「甲子園出場!」から「帝京高校を倒して甲子園出場!」へと変わりました。

でも、今から思うと、どうなんでしょう。

これは私の私見ですが、普通に試合をしていても正直なところ、結果は同じだったのではないかと(ここだけの話)思っています(笑)

この時の帝京高校は、かなり強かったのが事実。 3年生に中村選手(現ソフトバンクホークス)、大田選手(元DeNAベイスターズ)、同学年に杉谷選手(現日本ハムファイターズ)、高島選手(元中日ドラゴンズ)などがいて、押しも押されぬ甲子園ベスト8の強豪校。 勝利の女神が微笑みどころか大笑いでもしない限り、当時の私達には厳しい相手だったと思いますよ。

 

~2008年春の選抜、第80回記念選抜高等学校野球大会~

人生初の甲子園、関東第一としては21年ぶり3回目の出場です。 80回記念ということで開会式はお祭りのように華やかだったのを覚えています。 いままでテレビで見ていた全国の強豪校のユニフォームを目の当たりにして、自分たちがその場にいるのが不思議な感じすらしていました。

初めての甲子園

出場できたことは嬉しかったけど、やはり全国のレベルは高かった。初戦で明徳義塾と当たり、3-1で敗退しました。 相手の送りバントを2回ほどセカンドで刺して防いだ事は覚えていますが、その他の事はおぼろげにしか覚えていません。あっという間に終わった感じでした。 むしろ、この大会に来るために東京で戦った創価高校(11-4)、東京実業(15-4)、早稲田実業(14-4)、国士舘高校(9-5)との激戦の方が強く印象に残っています。

きっと甲子園というものの迫力に気圧されていたのでしょう。 また、初めての甲子園に気持ちが舞い上がっていたんでしょうね。

そんなことじゃ、まだまだです。弱い弱い。

中村 亮介

~最後の夏、「帝京高校を倒して甲子園に出場!」の夏~

春の甲子園出場を果たし少し慢心気味の関東第一高校、チームの立て直しが始まりました。

練習はもちろん、生活指導からの立て直しです。 この時の監督の言葉を鮮明に覚えています。

「野球の神様はいる、グランド外の行動も見ている、ゴミ1つ拾う事、虫の死骸1つ片付ける事、それらを神様は見ている。ここぞという時に神様は味方してくれる。人間として当たり前のことは当たり前にやろう」

その通りだと思いました。 とかくフィジカルな方に傾きがちな自分を自覚し始めていた私は、監督の指導を自らに徹底し実行ました。 謙虚にごみをたくさん拾いました。いつもポケットはいっぱいでした。 行動の一つ一つを監督の言葉に照らして考えるようにしました。  少しは強い人間になれたかな? 監督のこの言葉は、今でも私の規範になっています。

 

 

さあ、いよいよ夏の甲子園・東東京大会が始まります。 キャプテンが抽選で見事なくじを引いてくれました。4回戦目に帝京と当たります。甲子園への道の途中にしっかり帝京戦があります。 帝京を倒さないで甲子園へ行っても意味がないと心に決めていた私たちにとって、絶好のシナリオができ上がりました。キャプテンのクジ運には感謝です。

東京実業、日大一高を退け、シナリオ通り帝京との決戦の日が来ました。事実上の決勝戦とも言うにふさわしい神宮球場での試合です。

2008年7月18日

空は怪しい雲行き 昨年の「降雨コールドゲーム」の記憶が全員の脳裏に蘇り、ますます闘志に満たされます。

すごい緊張感。 スタンドの応援も凄いボリュームです。

試合開始早々2点を先行されましたが、チームの覇気はいっこうに衰える気配がありませんでした。 キャッチャーのポジションからはチーム全員の表情がつぶさに見えます。 みんな爛々としています。 月並みな表現ですが、負ける気がしませんでした。

帝京打線の強打を凌ぎにしのいだ3回裏、関東第一の打線がブレイクしました。4点を取り返し一挙に逆転。

スタンドはあたかも優勝が決定したかのような大騒ぎ。私達も大騒ぎ。

帝京は、注目の右腕・高島選手を2番手で登板させてきましたが、まさに焼け石に水。 この時の私達には、きっとどんな名投手でも打ち込んでしまう勢いがあったと思います。 さらに追加点を重ね9-5

V3を狙う帝京に果敢に挑戦した私たちは、見事念願を成就しました。

その後、足立学園、日体荏原、二松学舎大付、東海大高輪台を下し、甲子園出場の切符を手に入れた夏の大会、母校としては史上初の春夏甲子園出場です。

中村 亮介

甲子園に春夏連続で出場するなんて、こんな高校野球冥利に尽きることはないとは思いますが、私達は決して舞い上がることなく、とても落ち着いて甲子園の土を踏んでいたと思います。  モチベーションが変わっていたからだと思います。

甲子園に出場できただけで満足していたのが春、この夏は勝ち上がることが目標でした。

最後の夏を1日でも長くプレーして高校野球を完結したい! 私はそんな思いで、必死でした。

 

1回戦、常総学院(茨城県)13対5 勝利

2回戦、鳴門工業(徳島県)5対2 勝利

3回戦、浦添商業(沖縄県)1対3 敗北

 

本当に、たくさん戦いました。

深紅の優勝旗をつかむにはあまりに遠く、力不足は痛感しましたが、悔いなく戦い抜くことができたと思っています。 やり切った感があり、充実感に満ち、涙は一切出ませんでした。

しかしここで涙が出ないというのもある意味問題でした。

整列、相手校校歌、スタンド挨拶、試合後取材、目まぐるしい試合終了後の流れの中で、チームの皆は悔し涙に暮れていました。 大泣きする仲間のなかでまったく泣けずにいた私は、必死に右手でおでこをおさえ、泣いているのを隠すかのような仕草をしていました。 そこをばっちり新聞に使われました(笑)

 

2019年7月27日 関東一高は3年ぶり8度目の甲子園出場を決めました。 同級生や先輩たちから送られてくる動画を見るたび、当時を思い出します。

今は、エコアハウスで野球をやらせてもらっています。 仕事と野球を両立できる環境を頂けていることに感謝しています。

エコアハウスの仲間たちと共に頑張って目指すのは日本一の家造り、そして日本一の野球です!

中村 亮介

里塚オフィス 係長

中村 亮介

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