寺澤 貴裕
駒大付属岩見沢高校 / 1998年夏・1999春
「ヒグマ打線」で有名だった駒大岩見沢、その異名はダテじゃありません。
私が入学した1997年には、1年生だけで34人、それも道内各地から集まったエースで4番の選手ばかり…ピッチャー陣だけでも10人以上いて、その中には古谷拓哉(元千葉ロッテマーリンズ)さんもいました。古谷さんはやはり、当時からすごかった!
中学時代、別海町でエースだった私はより高いレベルを求めてこの高校に進学しましたが、ちょっとレベルが高すぎかな???
いざ来てみると「こんな世界があるんだ!」と不安と緊張の連続でした。
1年生の練習メニューはこんな感じです
限界までの走り込み、
手のまめが潰れても血だらけで素振りをし、
その他は基本ボール拾い、先輩に「叱咤激励」されながらのボール拾いは、かなり下半身使います。
キャッチボールは5m位の短い距離のみ。
このメニューを一日何度も繰り返し練習しました。 トレーニング中に水を飲んではいけないというのが当時の考え方でしたので、とても苦しかったのを憶えています。
そして初めての寮生活、
厳しい上下関係
食事も大切なトレーニングで、胃袋の限界ギリギリまでご飯をいただく日々。
本当に、辛くて辛くて辛くて辛くて。。。
ホームシックにかかりましたよ。トホホ。。。(笑)
ですが、そんな厳しい基礎練習があったからこそ足腰が強くなったのは間違いありません。今は地元のクラブチームで野球を楽しませてもらっていますが、同年代の仲間よりちょっとだけ(?)身体年齢が若いと感じる事は多々あります(笑)
ともあれ、私はこの1年間の練習メニューのおかげで、体力的にも精神的にもグッと成長できたと感じています。
2年生になっても公式戦はもっぱらスタンド応援でした。
目標は、ベンチ入り。
「必ずベンチ入りして甲子園でプレーしてやる!」
この強い意志を私に授けてくれたのが、2年生の夏の大会でした。これは、スタンド参加とは言え「私の甲子園」を初めて実現してくれた試合です。今でも鮮明に憶えています。
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1998年、夏の甲子園・南北海道大会の決勝戦・対戦相手は札幌南高校
4点を先取され、相手投手の交わすピッチングに「自分達の野球」ができず、手も足も出ないまま追い詰められたヒグマ打線。
挽回のチャンスをつくれないまま7回まで4-0
あきらめるな、あきらめるな! がんばれ、頑張れ!
力の限り応援しても開けぬ活路に、声も枯れかかっていました。
・・・ここで信じられない事が起こりました。
突然の驟雨。
試合は一時間程中断しました。
まさに天の悪戯。
でも、この小さなハプニングは、実は駒大岩見沢にとって大きなチャンスでした。
ちょっとした時間の狭間で、選手達はスッキリと気持ちを切り替える事ができたようです。
大粒のしかも大量の雨が、選手たちの気持ちの中にあった焦りや迷いまでキレイに洗い流してくれたようです。
試合再開がアナウンスされた時、ベンチから飛び出してきた選手たちの雰囲気はガラリと変わっているのがスタンドからもわかりました。
・・・2アウト満塁、バッター4番北村。その日の北村は見事に抑えられていました。しかし!2ストライクに追い込まれた後、スライダーが真ん中に入り、なんと!同点満塁ホームラン!その後は試合の流れが変わり、更に3点追加。
終わってみれば10-7で南北海道大会優勝! 甲子園出場を決めました。
嬉しくて嬉しくて、涙が止まらず、皆で肩を抱き合いながら涙していたと思います。
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初めて経験した甲子園
その雰囲気は独特で、歓声のボリュームも凄まじい。すべてのスケールの大きさに圧倒されるばかりでした。日本中の歓声を浴びながら、日本中の人が見守る中で、日本一を決める闘いに臨むのは、まさに「野球冥利」そのもの。
ここに来て初めて、甲子園の持つ意味・重さをようやく実感できたような気がしました。
岡山代表の岡山城東に4-5で初戦敗退となりましたが、この時の感動が引き金になってより一層練習に励むようになりました。
「必ずベンチ入りして甲子園でプレーしてやる!」
でも、これって予想以上に大変な道のりでした。ベンチはなかなか遠く、3年生までの間に願いが叶う事は残念ながらありませんでしたが
また、この時の甲子園には北海道からもう一校が出場していました。 北北海道代表の滝川西高校です。南北海道代表の私たちと同様一回戦で惜しくも敗れてしまいましたが、智弁学院の強打線をよく凌いで健闘していました。
特に、三塁手(サード)の伊藤選手が印象的でした。伊藤選手は小柄なのにとても大きく見える選手でした。躍動的で守備範囲がとても広いからそう見えたのだと思います。どんな強打にも飛びつき、見事に捌いていました。
凄い選手もいるものだな!と思いました。
あれから20年。
まさかその後、彼・伊藤秀則さんとエコアハウスで一緒に仕事をすることになるとは。。人生って面白いですよね。
彼はいま、国家資格を取得しながら現場監督の仕事に従事しています。エコアハウスの施工管理チーム(工事部)15名のうちの一人です。 優しくて愛嬌も豊かな監督さん(宴会で見せる谷村新司のものまね一発芸がまた凄い!)ですが、とっても厳しい人です。 彼らの厳格な仕事のおかげでエコアハウスが「全国工務店グランプリ」で2回も1位を受賞できたと思うにつけ、とっても頼もしい存在に思えてきます。
私も「日本一の施工品質」の家づくりを担う一人です、頑張らねば!
伊藤秀則さん
駒大岩見沢は、残念な事に平成25年に廃校になってしまいました。でも、ここで過ごした3年間は最高でした。
入学当時はちょっとプライドの高い、いわゆる「生意気」な野球少年だった私。 そんな私が、挫折の失望感やそれを乗り越える強さを学ぶことができたのが駒大岩見沢の3年間でした。
中学校の時は何も考えなくてもキャッチャーミットへ投げれたし、フォアボールなんて考えた事もないくらいコントロールも安定していたのに、高校に入学していざマウンドに立つと、自分のフォームがわからなくなってしまう気弱さ。 小手先でフォーム修正を繰り返し、さらに混乱し悪循環。どんどんネガティブな状態に自分を追い込んでしまう混迷の日々。 こんな時って、真剣に考えれば考えるほど、頑張れば頑張るほど悪い方に行ってしまうものなんですよね。 なかなか上手くはいかないもんです。
でも、そんなひ弱な「野球少年」が、高校野球生活のなかで、ひとまわり強く!大きく!変わる事ができました。
それは、周りの人々から、「心のばね」をもらったからです。
監督・コーチ
両親
そして、家族のように過ごした野球部の仲間たち
私のベンチ入りを実現しようと、教え、励まし、そして何度もチャンスを与えてくれた人達の思いが私を強くしてくれました。
苦しくても辛くても、仲間がいたから頑張れた、両親の応援と支えがあったから頑張れた、監督やコーチの親身な指導があったから頑張れた!と思っています。
当時、1998年・1999年の駒大岩見沢と言えば、夏・春連続で甲子園出場を実現した黄金時代でした。 みんなが上を向いてまっしぐらに戦っていました。 この時日々挫折の淵にあった私でしたが、それでも皆と一緒に上を向いて、目標を持って練習に励む事ができていました。みんなとの触れ合いがバネとなって、いつも上に向かって跳ね上がることができていました。
これは言葉にできないくらい有難い事だったと思っています。20年を経た今でも、この時のことを思い返すたび胸が熱くなります。
月並みな言葉に置き換えたくはないのですが、これしか知らないので書かせてもらいます(笑)
「感謝の気持ち」
これは紛れもなく、仕事に、プライベートに、人生のあらゆる場面で、今の私が大切にしているテーマでもあります。